10月10日(月)145年前の今日

ちょうど145年前の今日、本校の目の前の大学校舎の地に居を構えていた三島中洲は、洋学の基礎としての漢学習得という視点から、漢学塾二松学舎を設立しました。写真は、当時の「舎則」です。

設立当初の二松学舎は、学制(1872年)にもとづき、いわゆる中学校に位置づけられました。まだ明治初期ということもあり、新政府には学校を設立する財政的余裕がなかったからです。ところが次第に公立学校が整備された結果、教育令(1879年)、改正教育令(1880年)、そして学校令(1886年)という新たな学校制度の下で、二松学舎は「各種学校」に変更されます。つまり卒業しても、上級学校の受験資格が得られないという意味で、いわば「制度外学校」となります。写真は、この時の模型です。

そのような二松学舎であっても、創立者の三島中洲の存在、廉価な寮費の寄宿舎いうこともあり、生徒を魅了し続けました。事実、生徒数は増加し、附属高校の地には分校「梅塾」が設立されます。写真は、二松学舎に学んだ人々のパネルです。

しかし社会的な進学熱の高まりなどを背景に、「制度外学校」二松学舎の学生数は減少していきます。また中洲、さらに彼の後継者である三男の復も亡くなります。そこで1919年、二松学舎の経営を受け継いだのが、「義利合一論」で中洲と交差した「日本資本主義の父」渋沢栄一です。写真は、中洲の胸像です。

渋沢ら経営陣は、二松学舎存続のため、「制度内学校」である高等教育機関の設置を決断します。それが、1928年設立の二松学舎専門学校です。以後、二松学舎専門学校は、明治期以来の漢学教育の経験をベースに、国語科教員養成・免許取得を目的とする「制度内学校」として、生徒を集めていきます。写真は、校舎の変遷です。

やがて第二次世界大戦敗戦を経て、日本国憲法・教育基本法・学校教育法という新しい法体系下、1949年、二松学舎専門学校は二松学舎大学に移行します。二松学舎のように、明治期の漢学塾が高等教育機関に直結した事例は、他にありません。我が附属高校は、二松学舎が専門学校から大学に移行する際の財政的基盤・原動力の1つとして、1948年に設立されました。今年で74年迎えます。写真は、創立145周年を記念した碑です。

二松学舎は今日から、146年に向けた歩みを始めます。写真の奥は、二松学舎の名の由来となった2本の松の木のモチーフとして、植えられたものです。

今日の担当も、入試広報部の車田でした。